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◆『僕は精神が好きだ』--- 弾圧の時代を生きた社会運動家・大杉榮の38年。
◆大杉栄(1885 - 1923)

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calendar_today12-07-2012 18:13:10

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猫は屋根の上で、犬は道ばたで、人目は勿論、猫目も犬目も憚らずに、しかも大声を立てて恋をする。何故人間のみは、あんなに恋を恥かしがるのだろう。蛤の赤身を平気でひろげて見せていた小娘が、年頃になると、何故急に、ああも事ごとに恥かしがるのだろう。(1913年「羞恥と貞操」1-1/12)

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湯屋の三助に背中を流させて得意でいる女が、相許した男にはずいびん痴態を演じても見せる女が、何故外の男の前では、手足の膚一つ露わすことすらに、あんなに恥かしがるのだろう。男はそんなでもないのに、何故女は、ああも慎み深いのだろう。(1913年「羞恥と貞操」1-2/12)

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それに田舎のよりも都会のに、いわゆる文明の優れた国のに、何故ああも厳しいのだろう。これは一般の人々にとって、きわめて平凡な疑問であるかも知れぬ。したがってその解釈もまた、きわめて容易であるかも知れぬ。(1913年「羞恥と貞操」1-3/12)

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しかしそれらの人の疑問や解釈の多くは、初めから羞恥や貞操を婦人本来の、しかも美わしき道徳として決めてしまった上での疑問や解釈に過ぎない。羞恥や貞操がそんなにありがたいものか、あるいは下らないものかについては、僕はいま議論をしない。(1913年「羞恥と貞操」1-4/12)

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ただ僕は、比較人類学上の事実を列挙して、これらの性情が必ずしも婦人本来のものでないことと、およびその起因とを、多少そこに暗示し得れば足りる。(1913年「羞恥と貞操」1-5/12)

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原始人は動物と同じく、裸体でいることに、また生殖欲を満足さすことに、いささかの羞恥あるいは貞操の観念を持たない。まずオーストラリアでは、自由な女、すなわち持主を持たない女は、自分の好き勝手にその肉体を取扱っている。そして何びともこれに干渉しようともしない。(1-6/12)

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十二、三歳の男の子と女の子とは、思い思いに自由に共棲している。しばしば親と子が結合する。また部落のお客のところへは、必ず若い娘がお伽に出る。これはニューカレドニアでも、アンマダン諸島でも、あるいは恐らくはメラネシア全体の蛮人の風習である。(「羞恥と貞操」1-7/12)

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けれどもいったん女が或る男の持ちものになると、そこに制限が課せられる。しかし、これとても何らの道義的意味があるのではなく、ただ所有権から出たことに過ぎない。女は男のものである。しばしば男はその友人や何かに、あるいは無代、あるいは代をとって、その妻を貸す。(1-8/12)

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そして男の許可なくして、いわゆる不貞をする女は厳罰に処されるのだが、持主たる男にはもとより絶対の自由が保留せられている。男が女を物として取扱い、これを使用し濫用する権利を持つようになったのは、蛮人が共産制を離れて私有財産制の味を覚えてから後のことらしく信ぜられる。(1-9/12)

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メラネシアの男女が性交をするのは、いつも林の中か藪の中かで、しかも真昼間である。そしてその性交の方法も、すこぶる妙なもので、まったく動物的と言って善い。すなわち犬のやるのと変りはない。さらにメラネシアからポリネシアに行くと、ほとんど動物と同様の両性関係を見出す。(1-10/12)

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その自由は不規則というのではなくて、初めから全く規則がないんだ。アメリカの一旅行者ポーターは言っている。我々の言うような道徳は、全く彼らの間に知られていない。その行為を恥などとは少しも思わぬ。かえって自然のそして罪のない楽しみだとばかり思っている。(1-11/12)

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フランスの一旅行家ヴァリニーは言っている。これらの諸島にいる宣教師が最も困難とするのは、女に羞恥や貞操を教える事だ。彼らはそんな言葉も知らなければ、どんなものかも知らない。近親相通じたり姦通したりするのは当たり前の事となって、輿論もこれを容れ、宗教もこれを祝聖している。(12/12

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社会的秩序の混乱と相次いで、更に近代個人主義の勃興に与って力あったのは、それと全く反対の現象たる社会的秩序の整頓であった。社会的大変革の後にはいつの世でもそうであったのだが、一方には社会的秩序の混乱があると共に、他方にはそのこと自身の中にすでに秩序の整頓が含まれている。(1)

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すなわちフランス大革命後の封建的秩序の解体も、実はさらに新しき社会的秩序の再組織であったのだ。ある旧い桎梏(しっこく)は消滅した。が、それも実際はさらに新しき桎梏によって置き換えられたのだ。(1915年「近代個人主義の諸相」2- 2/13)

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大革命は、旧い社会的制度を破壊した。が、この大革命はまた、さらに新しき社会的制度の建設によって、各個人の上に中央集権的専制を欲しいままにしようとしたのだ。かくして各個人の心臓は、この巨大な重荷の社会的圧迫を感ぜざるを得なくなった。(「近代個人主義の諸相」2- 3/13)

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近世国家の中央集権的原則は、国家の中に諸国家の存在することを許さない。国家は唯一、不分割性のものである。国家の中の一切は、国家の監視と制裁とを遁れて、存在することが出来ない。各個人は生れてから死ぬまで、国家の監督の下に生活しなければならぬ。(「近代個人主義の諸相」2- 4/13)

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そしてまたかくの如き組織の社会にあっては、各個人はあまりに集合し合い、従ってまたあまりに拘束し合う。各個人の生活が他の人々の生活の中に、あまりに食い込み合う。一方には、すでに先に言った如き旧組織の破壊から来た、悲観と楽観との個人的自由の思想と感情とが湧きつつある間に、(5/13

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他方には、その思想と感情とがこの新組織の建設によって妨げられ、また害われる。かくしてここにもまた、等しく憤懣と悲観との思想と、奮闘と楽観との思想とが、各個人の境遇と気質とに従って生れ出て来た。(1915年「近代個人主義の諸相」2- 6/13)

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個人主義の発生は、社会組織が各個人にとって堪え難きほどに強圧的であることを予件とするものであるが、それと共にまた、ある程度の社会的解体をも予件とする。この後の予件がなければ、多くの場合に、各個人の社会的叛逆は不可能である。少なくとも無効果である。(2- 7/13)

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政治的および社会的束縛が、非議すべからざるほどに、あまりに強力であり、一切の秩序があまねく是認せられ尊敬せられている社会においては、とにかくに個人主義的叛逆などという気の、よしそれが如何に慎重な態度のものであっても、容易に起きる可能性がない。(2- 8/13)