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「真実の作家は、現実の状況を変革すべきものと考え、そのために闘うものでなければならない」(「状況と人間と作家の主体」) 。映画作家・大島渚の言葉を呟きます

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calendar_today17-12-2020 09:59:52

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作家として状況に対立し続けるために、絶えず自己を否定し、変革していく運動が必要なのである。そのような運動・方法論は、それ自体自己目的化されるのではなく、あくまで、現実変革の武器として、意識の変革を目指す立場に貫かれなければならない(「自己否定の法則」)

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映画の大衆性。映画は大衆に基盤を置く芸術である。映画は大衆的なものでなければならない。こうした言い方、考え方がなんら疑問なく断定的に通用していることに対して私は疑問がある。(「戦後日本映画の状況と主体」)

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現実とべったり密着した同一平面でしか作品を観ない自然主義的な芸術観が、批評家や観客を支配していること、そしてそれは、小学校・中学校の教科書の中に既に準備されている現状を考えるならば、私たちの作品の立場がいかに苦しいかはよく判るであろう。(「敵」)

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擬似主体たちは挫折した。私の考えでは、真の主体と呼ぶべきものに挫折はない。擬似主体には無限に挫折があるだろう。しかし、これは奇妙な挫折だった。あるものにとっては挫折と感じられる挫折であり、また或るものにとっては挫折と感じられない挫折だった。(「戦後日本映画の状況と主体」)

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近代主義者たちがこのような形で日本映画の中に登場してきたのは、単に彼らの芸術的資質あるいは社会的認識によるものではない。彼らは、1950年代後半の、映画企業の存在形式と、日本社会の状況に鋭敏に反応しつつ必然的な形で出現したのである。(「それは突破口か?」)

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今井正の発言や映画製作サイドの根本にあるものは、映画対観客と言う考え方である。今井正はいつも何を訴えかけようかとして映画を作り、どうしてよく判ってもらえるかということを懸命に考えている。(「今井正下手くそ説について」)

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映画作家はそんなにいろいろなカットやシーンを取るものではない。ただ自分の独特のカットなり、強いなりに、いつも主体の重みをかけ続けられるかどうかと言うことが問題なのだ。(「作家の衰弱」)

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擬似主体意識の発生は、明らかに戦後日本の混乱と民主的諸立法、諸制度、抵抗運動であった限界は持ちつつも昂揚した民衆運動の中に育った戦後世代が日本社会の中に運動の中に登場し始めたことに基づくものである。(「戦後日本映画の状況と主体」)

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作品の認識と方法が何らかのパターンにとらわれているものに対しては全面否定で望まなければならない。パターンにとらわれた作品は、結果として人々の意識を変革し得ず、変革のイメージも人々の心の中に呼び起こすことができない。(「疑問に答える」)

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私が民衆の戦いの歪みや遅れ、敗北や挫折を描くのは、私が自分に自分の戦いに満足していないからです。と同時にそれは民衆、あるいは民衆の戦いに満足していないことでもあります。それで私は作品の中で観客と私に突きつけるのです。これでいいのか!(「疑問に答える」)

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1956年のスターリン批判、それに続く東欧の動乱等共産圏の諸事件は、運動におけるマルクス主義の神話の崩壊のための大きな契機となり、民衆の主体意識に基盤を置いて新しい運動を展開しようとするものたちに力を与えた。こうして安保闘争は準備されたのである(「戦後日本映画の状況と主体」)

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どのように擬似的な運動であり、擬似的な参加のしかたであったにしても、そこには明らかに運動があったし、参加があったのである。(「戦後日本映画の状況と主体」)

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安保闘争は敗北した。敗北しても、その中で擬似主体意識の擬似生が取り払われ、確固とした主体意識が残り、それを基盤とする運動が残るべきであった。それもほとんど残らなかった。抵抗運動の側ではこれを勝利と称した。(「戦後日本映画の状況と主体」)

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1つ1つのショットの中で、既成のステロタイプ化したイメージを打ち壊していく以外に、映画を変える方法はない。どのショットにも、作品全体を流れているのと同質の批評が含まれているような作品、それが初めて映画の名に値するものなのである。(「ショットとは何か」)

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戦後数年、日本社会の混乱の中でその前近代的な制度や人間関係に対し、人間の自由と権利の側からの逃走が激しく行われた。映画企業も一方に伝統的な前近代的内容形式の作品を温存しつつ、一方ではそれらとの闘争の方向に沿った内容を持った作品を作った。(「それは突破口か?」)

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明後日の作家達は、映画の製作の中で、経営者・製作スタッフ・観客を結ぶ力強い糸として批評家の果たすべき責任の重くかつ大きいことを信じ、その健在を祈るのである。(「明後日の作家から」)

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私たちは共通の場で、日本映画の中に真に新しい潮流を生み出すために、何が必要であるかを討議し、その潮流を作り出していこう。そのことだけが、日本映画の危機、芸術的な危機、商業的な危機、そして映画に働くものの生活の危機を救う唯一の道なのである(「ヌーベルバーグを撲滅せよ」)

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現在の芸術運動における前衛は、運動の具体的な各局面に自ら主体的にかかわらず抽象的一般的な議論を繰り返すことによって自ら商品化し運動内部に於いて運動の障害となっているモダニズム的傾向と徹底的に闘わなくてはならない。(「芸術運動とモダニズム」)

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日本映画の主流的な伝統形式と、日本人の生活意識及び認識の間には、動かしがたい保守性を持って関連が存在している。中平、白坂、増村の新しい映画作家たちは、当然そうした古い伝統形式に反逆し、彼らの認識が信ずる新しい形式を自らの映画の中に打ち立てた。(「それは突破口か?」)

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私は二・一ストについては知らない。二・一スト以前の戦後日本の運動がどのようなものであったか、私はそれを生き生きとした形で知ることができない。(「戦後日本映画の状況と主体」)