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福田恆存

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福田恆存(1912-1994)のbotです。全集、評論集から引用します。一部常用漢字が混じつてゐます。

ID: 272327453

calendar_today26-03-2011 08:33:52

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エゴイズムには豐かな重量感がある。美しい。が、硬さだけはない。硬さは生命感とは反對のものだ。生きるといふことはかぎりなく柔軟になること。そして死とはその柔軟性の極限において無のうちに溶け去ること。(白く塗りたる墓)

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ぼくたちの自我意識は、しかし、生の流れをせきとめる。そればかりではない。溶けるようにすなほに死ぬことさへ不可能にさせる。ぼくたちはなにものかにとらはれて死ぬことを拒み、またなにものかにとらはれてみづからの命を絕つ。近代人は死ぬことも生きることもできないのだ。(白く塗りたる墓)

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生きる理由などといふものはなにもない──死にたくないといふ生の意慾を肯定しない以上は。が、ひとびとはそのことをひたかくしにかくす。(白く塗りたる墓)

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自分のエゴイズムになぜ氣づきたがらぬのか、なぜこれを正當化しようともくろむのか。自分に自信がもてないからだ。食ひたいものを食ひ、欲しいものを身につける自信がないからだ。きみたちはそれほど生きることに自信をもてないのか。(白く塗りたる墓)

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大事なのは、相手でもなく自分でもなく、相手と自分とを包み、相手と自分とを成立たせ、相手と自分とが作上げる場そのものである。(言葉は敎師である)

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必要なのは、相手や自分にその自由と可能性を許容し、それを狹く限定してしまはぬやうに心を配ることではなくて、それよりも場そのものが自由と可能性を保持するやうに心を配ることである。(言葉は敎師である)

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失敗者は失敗の必然を、成功者は成功の必然を欲する。だが、ひとびとは、なぜさうまで必然性を身につけたがるか。いふまでもなく、それは自己確認のためである。私たちは、自己がそこに在ることの實感がほしいのだ。(人間・この劇的なるもの)

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劇的に生きたいといふのは、自分の生涯を、あるいは、その一定の期間を、一個の藝術作品に仕たてあげたいといふことにほかならぬ。この慾望がなければ、藝術などといふものは存在しなかつたであらう。(人間・この劇的なるもの)

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嫉妬や憎惡がわれわれを孤獨におひこむと同様に、自我意識もわれわれを孤獨におとしいれる。われわれはこれに刺戟を與え、カタルシスをおこなはなければなりません。われわれを孤獨から解放するもの──それが藝術であります。(藝術とは何か)

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人間がみずからの主たるためには、人間のうへに主たる存在を設定しなければならない。みづからがみづからをよく演出するためには、すすんで被演出者の位置につかなければならない。演戲とはさういふことをいふのだ。それはみづから意思して操られることであります。(藝術とは何か)

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人の心の醜さがつねに眼に映じてゐながら、必要もないのに、それをあばきたて、あへて自他の間に隔壁を設ける狷介さは、ハムレットの與り知らぬものである。(人間・この劇的なるもの)

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おそらく誤解をまねかずにはおくまいが、ある瞬間には、批叛の自由といふ自我の特權を棄てて、旣存の現実に隨ひ、過ちを犯して顧みぬということが必要なのだ。(人間・この劇的なるもの)

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旣存の現實に隨つて過つといふことによつて、私は旣成勢力の溫存を擁護しようといふのではない。社會の推移に應じて倫理観も變わるといふやうなあやふやな考え方に、私は疑問をもつのである。(人間・この劇的なるもの)

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巨視的世界像はあくまで觀念的なものであり、ぼくたちはそれをあまりに當然なるものとして、今日の現實を生きる目的とはなしがたいのです。觀念は巨視的でありましても、現實は微視的な世界のものであります。(觀念的な、あまりに觀念な)

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ぼくはただうそをうそといふのが商賣です。五厘一分のくるひでも、それがあつたらはつきり指摘するのがつとめでもあります。そこにぼくの限界があり、ぼくは自分の限界を知つてゐて、それ以上のことをやりたくもなければ、やつてゐるとおもはれたくもありません。(觀念的な、あまりに觀念な)

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なんぴとも孤立した自己を信じることはできない。信じるにたる自己とは、なにかに支へられた自己である。私たちは、そのなにものかを信じてゐるからこそ、それに支へられた自己を信じるのだ。(人間・この劇的なるもの)

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もし、私たちが、眞に過去の道德によつては裁きえぬことを知つたなら、同時に、また、過去の道德によつてしか裁きえぬこともさとるであらう。私はそれがまちがつてゐると知りながら、それによつて裁かれることを欲する。(人間・この劇的なるもの)

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今日、私たちは、あまりに全體を鳥瞰しすぎる。いや、全體が見えるといふ錯覚に甘え過ぎてゐる。そして、一方では、個人が社會の部分品になりさがつてしまつたことに不平をいつてゐる。(人間・この劇的なるもの)

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他人はつねに自分によつて見られつくしてゐるものでもなく、自分もまた他人によつて、自分自身によつて、知りつくされてゐるものでもない。さうして、未知の暗黑にとりかこまれてゐればこそ、自我は枠をもち、確立しうるのだ。その枠のないところでは、自我は茫漠として解體する。(nk)

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近代藝術においては、人間一般が英雄になるのではなく、個性が、自我が、英雄になるのであります。そこでは鑑賞者の自由は失はれる。劇場における觀客は、英雄になることではなく、英雄崇拜を強ひられるのだ。(藝術とはなにか)