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クリシュナムルティ

@yukinko_satou_r

インド生まれの宗教的哲人、教育者。クリシュナムルティ。既知にとどまらず未知へ踏み出そう。

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calendar_today20-06-2016 22:58:45

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愛しなさいそうすれば罪は存在しない。愛し、そしてあなたの欲するところを行えば悲しみは存在しない。

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人が決して私は知らないと言わないのは奇妙なことだ。それを真に口にし感じるには「謙虚」さがなければならない。しかし人は決して何も知らないという事実を認めようとはしないのだ。

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心に知識という栄養を与えるのは虚栄である。虚栄とは絶えず望みをもったり落胆したりしている奇妙な病である。だが知らないというのを認めることは、知るという「機械的」な過程を停止することである。

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私は知らないというには幾通りかの言い方がある。何かを印象づけたり重要なものを得る等々のための見せかけであったり、すべての見せかけの巧妙で陰険な方法。つまり何かを発見するための時間稼ぎとしての私は知らないと、知ることを求めてはいない私は知らないがある。

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前者の状態にあっては何を学ぶこともなくただ集めるだけでありそうであるため決して学ぶことはありえない。一方後者の状態は決して蓄積することなく絶えず学ぶ状態にある。

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学ぶには自由が必要であり、そうであってこそ心は若々しく無垢であることができる。蓄積は心を腐敗させ老いさせ、枯れさせてしまう

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無垢であることは経験の欠如ではなく経験から自由であることだ。この自由はあらゆる経験の死滅であり、肥え太ろうとする頭脳の土壌に経験を根付かせないことである。経験なくして生は存在しないが、その土壌が根でいっぱいであるときにもまた生は存在しない。

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だが謙虚さとは既知なるものを意識的に浄化してゆくことではない。それは達成しようとする虚栄である。

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しかし謙虚さとは死滅しようとしているものを知るところのないあの完璧さである。死の恐怖は知ることの中にのみ存在し、知ることのない所には存在しない。未知なるものの中に恐怖はなくただ既知なるものの変化と終焉の中にのみそれは存在する。

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しかし言葉の慣習、言葉の持つ情緒的な内容、言葉の隠された意味合いなどが言葉からの自由を妨げる。この自由なくしては、あなたは言葉、結論、観念などの奴隷になってしまう。多数の人がそうしているように言葉に頼って生きるならば内面的な飢えは満たされることはない。

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それは永遠に耕しているが決して種をまかないことである。そうしてあなたは非現実で見せかけの無意味な悲しみの世界に生きることになる。

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信念は言葉であり思考の結論であり言葉からなりたっている。そして心の美を腐敗させ駄目にするのがこれなのである。言葉を打ち壊すことはいずれにせよリアリティーを有していない内面的な確信の構造を粉砕することである。

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不確かであることそれは様々な形の病へと導く確信からの暴力的に引き離すことではない。そうではなくて確信の開花から生じる不確かさとは思い上がりでは決してその力を理解することができない謙虚さと無垢のことである。

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すべての変化の意図的な様式は無変化である。変化は動機、目的、方向をもっており、そうであるがゆえにそれは今まであったものの修正された継続でしかない。そのような変化は不毛である。

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それは人形の服を着せかえるようなもので依然として機械的で無生命的で脆いものでありやがては壊され捨て去られる。死が変化の避け得ない終焉である。

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それは今まであったものの修正された継続である。変容という全的な革命は変化や時間の様式が誤りであると見破られたときにのみ起こり、そしてその全的な放棄の中で起こるのである。

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瞑想とは何と並外れたものなのだろうか。もしも思考を順応させたり模倣させたりしようとする強制や努力が存在するならばそれは退屈な重荷となる。意図された沈黙は啓発的であることをやめる。

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もしもそれがヴィジョンと経験の追求であるならばそれは幻想と自己欺瞞へと導かれる。思考の開花とそれによる思考の終焉の中にのみ瞑想は重要性をもっている。思考は自由の中でのみ花開くのであり絶えず拡大してゆく知識の様式の中でではない。

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知識はより広大な感覚のより新しい経験を与えてくれるかもしれないが、いかなる種類のものであれ経験を求めている心は未熟である。成熟とはあらゆる経験からの自由であり、もはや生や死のいかなる影響かにもない。

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瞑想における成熟とはすべての経験を形づくり制御する知識から心を解放させることである。自分自身に対して光明である心は経験を必要としない。未熟とはより広大な経験を渇望することである。瞑想とは知識による世界を通り抜けて未知なるものの中へはいってゆくためにそこから解放されることである。