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前衛音楽家のヤニス・クセナキス(1922〜2001)の言葉を日本語でつぶやくbotです。ランダムで動画URLも呟きます。クセナキスは語る(青土社)、形式化された音楽(筑摩書房)、武満徹対談選(ちくま学芸文庫)、音楽と建築(河出書房)、ミュージック(フィルムアート社)からの引用です。

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calendar_today31-03-2022 07:14:44

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(承前)聴衆は音楽を阻害するような聞き方に慣れています。身振り、特に演奏家の身振りの美しさや劇的な様子、あるいは顔をしかめたりする表情、苦悩の様子、あるいはその反対の様子などに気を取られて、演奏にはもはやきちんと耳を傾けていないのです。

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つねに移民(よそもの)の意識を持っていなくてはならない。すべてにおいて。それでこそさらに新鮮で、鋭く、深いまなざしで物事を見ることができるのです。(続)

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(承前)なぜなら、そうすることで私たちが今いる環境、浸りきっている環境に安心することがなくなる。安心して慣れきってしまうと、もはや自分たちの環境がどんなものかさえ見えなくなってしまうのです。

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(中略)「樹形図」に関して特に言っておきたいのは、この方法の背景に哲学的な思考があるということです。樹形図の根底には、一つの点から出発して線を描くという初歩的な行為があります。(続)

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(承前)一つの点からどうやって線を引くかというと、この最初の点をくり返すことによってなのです。点を繰り返すと、線になるのです。それも、無限に小さく、近くくり返す。つまり、まさにくり返しや周期性をあらゆる段階で用いる音楽の様式に通じるわけですね。

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線図はもっとも一般的で普遍的、そして単純な記譜の方法です。なぜならそこには連続性があるからです。(続)

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(承前) いずれにせよ、何か媒体になるものを用いて作業をしなければならないのですが、もし五線譜を用いていたのならば、連続性を示すのは極めて難しかったでしょう。それで私は、一般的で普遍的な罫紙、つまりデカルト座標系に従ったグラフ用紙で作業したというだけのことです。

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私たちは知らずに、あるいは無意識にさえ、一つの構成、一つの構造を受け入れて使っているのです。たとえば、私がピアノの音を、白鍵と黒鍵から、いくつか適当に選ぶとする。するとそれはすでに、暗黙のうちに、平均律による半音階という一つの枠組みの構造を認めていることになる。(続)

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(承前)要するに、意識的にせよ、意識的でないにせよ、後から見た結果は、私たちが意図せずに選んだ構造を明らかに表すものになっている。

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べつに音楽を聴きながら、構造を読み取る必要はありません。聴くときに、必ずしも作曲の時点へ遡るような聴き方をする必要はないですよね。

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ヴィブラートを使いたくない理由は二つあります。まず一般的に、ヴィブラートは、感傷的で感情過多な表現だからです。ヴィブラートが音の張りを延長するものとしての役割を果たしていることはほとんどありません。私が言っているのは、感情の持続ではなく、音の張りの持続です。(続)

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(承前)二つ目の理由としては、ヴィブラートは持続音を作り出す際の難点を隠すものだからです。(中略)ヴィブラートをかけすぎると、正確な音がどこなるかわからなくなってしまう。結局、音がある範囲の周波数にまたがってしまうわけですね。これは私には耐えがたい。

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市街戦で戦闘の経験をしたわけですが、それによって否応なしに、この非常に特殊で、並外れた音響と視覚の出来事、それも、明らかに関係性のない複数の出来事が頭の中に刻み込まれたのです。(続)

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(承前)例えば、光の尾を引いて飛んでくる鬼光弾、そのさまざまな色、そしてそれが描く起動など、とにかくすべてが素晴らしかった。そもそもそれは天体の動き、彗星や流れ星などによくに似ているのです。つまりこれらは地上の流れ星とも言えますね。

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無調の音楽は調的機能の概念を打ち砕き、新たな道を切り開いた。ところが一度は開かれた道も、セリー音楽のほぼ絶対的な決定論ーすなわち物事はそれに先行する出来事によってのみ決まるのであって曖昧な点は全くないとする立場ーによって、すぐに閉ざされることとなった。

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新セリー派が強く推していた厳密な因果関係やあらゆるものをきっちりと定めようとする姿勢がその手法の複雑さゆえに失われたのであれば、それに代わるのもとしてさらに一般的な因果律をとらえる必要があった。かくして統計学的な手法の出番となった。

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統計学では、大数の法則や稀な出来事に関する法則、さらにこれとは別の偶然が絡んだ過程などを研究し、形式化する。というわけで、セリー音楽の行き詰まりという理由もあって、筆者は1954年に決定論とは対峙する原理に基づいた音楽作法を編み出し、その二年後にその音楽を「統計学的音楽」と名付けた。

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あられや雨粒が何か硬い表面に当たるといった自然現象、あるいは真夏の野外に響く蝉の声はどうだろう。これらの音響出来事は孤立した何千もの音で構成されているが、音の数が膨大であるために、全体として新たな一つの音響出来事となっている。(続)

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(承前)このような塊としての出来事が、可塑性を持ちながらもくっきりと浮かび上がる一時的な鋳型となり、この鋳型そのものが偶然を巡る法則ーつまり統計学ーに従うのだ。

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誰もが、何十、何百、何千もの人が政治的な行動をすることで生じる音の現象を見聞きしたことがあるはずだ。人の流れが同じスローガンを一定のリズムで叫んでいる。次に、デモの先頭で別のスローガンがわめきあがり、それが後ろへ広がっていって第一のスローガンにとって代わる。(続)