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灰田かつれつ2号

@haidaprewar

中折帽子・背広をメインに1930年代前後の研究をしております。

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calendar_today09-03-2016 10:09:55

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あまりに当たり前のことなので改めて語られることが少ないのだが、昔(1950年代以前)の中折れ帽は写真のような丸い天井のままで工場出荷され、これに各々が好みの形をつけていた。古写真の中折れ帽の凹みの形が不安定なのは現代のように折った型でのプレスがされていないからである。

あまりに当たり前のことなので改めて語られることが少ないのだが、昔(1950年代以前)の中折れ帽は写真のような丸い天井のままで工場出荷され、これに各々が好みの形をつけていた。古写真の中折れ帽の凹みの形が不安定なのは現代のように折った型でのプレスがされていないからである。
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昔の中折れ帽は型入れの際に現代のようなゴム系の糊ではなくシェラックニスを用いており、長時間にわたる表面の研磨と水圧プレスを受けているため、質感も現代一般的なそれとは異なる。

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推定1920年代のステットソンのソフト帽。この頃は処理の甘いベロアが流行っていた。上折り縁、5cm以上の極太リボン、ホンブルグのようにカーブした鍔といったのも世界的な当時の特徴で、30年代にはだんだんと廃れていくものである。

推定1920年代のステットソンのソフト帽。この頃は処理の甘いベロアが流行っていた。上折り縁、5cm以上の極太リボン、ホンブルグのようにカーブした鍔といったのも世界的な当時の特徴で、30年代にはだんだんと廃れていくものである。
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戦前の日本では綾織の背広生地のことを「セル」「サージ」などといったが、前者は春夏の薄地のこと、後者は冬向けの厚地のことを指したという。どちらも語源はsergeで、和製の英語となって区別が出来たらしい。

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日本で2つボタンのスーツが普及したのは戦後、というのは明らかに誤った認識であるが、さていつ頃から登場したのかというと、早くも大正8,9年ごろからだという。

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ただし裁断書には大正4年の時点で記述があるので、それよりももっと早くから「誕生」はしていたものと思われる。

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明治以降現代までの日本のスーツの上着の歴史を軽くまとめました。その都度多様性があるので一概には言えませんがだいたいこんな感じだと思います。近代歴史ものの漫画とか書いてる人の描き分けの参考になれば幸いです。本職の人は見ないでね。

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昭和12年の12月、名古屋のとあるレストランで「南京陥落スープ」なるものが出た。内容はかぼちゃのポタージュのチーズトースト添え。「南京」=かぼちゃ、「陥落」=「乾酪(チーズ)」をかけていたのだそうな。現代に再現したら問題になりそうである。

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戦前の今のアーバンライナーにあたるものの広告。このころ歴史や神話と結びついた『聖地』をめぐる旅行ブームがしばしば起こった。『名古屋・岐阜・三重・奈良観光案内』(昭和13年)より

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戦前のスーツといえばスリーピースの印象が強いが、こと日本ではすでに夏にはチョッキを着ることが廃れ始めていた。白麻の背広なども上下で売られているパターンが多くなっていたようである。『Don't : …なす勿れ』大正15年、『大阪三越』昭和15年より

戦前のスーツといえばスリーピースの印象が強いが、こと日本ではすでに夏にはチョッキを着ることが廃れ始めていた。白麻の背広なども上下で売られているパターンが多くなっていたようである。『Don't : …なす勿れ』大正15年、『大阪三越』昭和15年より
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1930年代のADAM製ソフト帽。高い山にツバは5cmと短い当時の典型的な形である。リボンは5cm以上あるがクラウンが高いのであまり太く見えない。

1930年代のADAM製ソフト帽。高い山にツバは5cmと短い当時の典型的な形である。リボンは5cm以上あるがクラウンが高いのであまり太く見えない。
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昔のソフト帽は大抵クラウンの部分とツバの部分で糊の濃度を変えて(ツバの部分は濃くして)いた。ビンテージハットが山は自由にシェイプできるのにツバはクタクタにならないのはそのためである。現代製品は一部のメーカーを除いてこれが徹底できていないように思われる。

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原敬氏の背広着用姿。体に張り付くような肩のライン、開きの狭い襟周り、胸前の絞りがなく末広がりのシルエットなどが時代を反映している。ちなみに氏が暗殺された時着ていた背広も現存している。(世界文化社の日本歴史シリーズより)

原敬氏の背広着用姿。体に張り付くような肩のライン、開きの狭い襟周り、胸前の絞りがなく末広がりのシルエットなどが時代を反映している。ちなみに氏が暗殺された時着ていた背広も現存している。(世界文化社の日本歴史シリーズより)
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活字の問題です。左は昭和15年の物ですが、では右はいつのものでしょうか?「灰」と「彦」の字が違いますが… 回答は下にどうぞ。

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それでは答え合わせ。実はどちらも同じ昭和15年のレコードの歌詞カードのものです。同じ紙の表と裏で活字の形が違います。このような現代同様の活字は注意深く見ていると戦前から混ざり始めていたりします。

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既製服の最高販売価格について定めた昭和16年の商工省令より。生地の種類や使う巾によって価格が規定されている。興味深いのが諸々の服について細かいサイズ規定が書かれていることで、当時の人々の体格を垣間見ることができる。都市向けと地方向けで異なるのも面白い。

既製服の最高販売価格について定めた昭和16年の商工省令より。生地の種類や使う巾によって価格が規定されている。興味深いのが諸々の服について細かいサイズ規定が書かれていることで、当時の人々の体格を垣間見ることができる。都市向けと地方向けで異なるのも面白い。
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戦前のフェルト帽子事情について。イタリアやイギリス、チェコスロバキアといった世界各国の有名メーカーからの輸入は昭和7年には21万個にも達したが、その翌年から急速に減っていく。政治上の問題というよりは単にこの頃から国産製帽技術が上がったためであろうということである。

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セーラー服が「学校制服」として採用されたのは大正時代のことだけれども、子供服としてはもちろんもっと前から日本に紹介されている(ただしスカートはプリーツのタイプではなくてギャザーでよせるタイプ)。こちらの出典は明治41年『子供西洋服の拵へかた』より

セーラー服が「学校制服」として採用されたのは大正時代のことだけれども、子供服としてはもちろんもっと前から日本に紹介されている(ただしスカートはプリーツのタイプではなくてギャザーでよせるタイプ)。こちらの出典は明治41年『子供西洋服の拵へかた』より
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久しぶりにこちらのアカウントから投稿。 昭和6年の銀座の街頭調査では、35%が鼠の切りツバ、15%が茶色のホンブルグをかぶっていたそう。一番少ないのは黒のホンブルグや鼠色の折りぶちなど。